【ダシマス老舗・福豆屋】「駅弁屋は、地元食材の広告塔」ファンを魅了し続ける素朴な味の裏にあった、直向きな情熱

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written by ダシマス編集部

創業30年以上の老舗企業に焦点を当てる本企画。持続的な成長と成功をおさめ、時代をまたぎ社会に貢献してきた歴史を紐解き、その長い期間によって培われた文化や知見から、多くの人に気づきとインスピレーションを与えることを目指しています。

本記事では、2024年で創業100年を迎える株式会社福豆屋の専務取締役、小林文紀さん(こばやし ふみき)さんにご登場いただきます。

各種テレビでも取り上げられ、JRが主催する駅弁コンテストでも最高賞も受賞した、福豆屋の看板メニュー「海苔のりべん」。大ヒット商品誕生の裏側には、家族をあたたかく支え続けた母の味がありました。100年という歴史を超えて受け継がれる、鉄道への深い感謝と味への探究心、そして地元郡山を背負う情熱に迫ります。

株式会社福豆屋 専務取締役 小林 文紀(こばやし ふみき)さん

株式会社福豆屋 専務取締役 小林 文紀(こばやし ふみき)さん

株式会社福豆屋専務取締役。日本鉄道構内営業中央会副会長。もともと東京の企業に勤務していたが、阪神淡路大震災後に福島に戻る。2024年、100周年を迎えた同社を盛り上げている。

執筆:神田佳恵

執筆:神田佳恵

フリーランスライター。"何気ない人生にスポットライトを当てる"をテーマに、インタビュー・広報note・SNS・コピーなどの分野にて執筆活動中。コミュニティ運営や編集、マーケターとしても活動の幅を広げる。一児の母。夫と息子、note、推し、旅が好き。

受け継がれる鉄道への感謝。真摯に味に向き合う祖父母の面影が宿る今

 

――はじめに、貴社の創業の経緯を伺ってもよろしいでしょうか。

弊社の起源は、曽祖父が茨城県水戸市で営んでいた和菓子屋「井熊總本家」の時代まで遡ります。当時、曽祖父が郡山と仙台、我孫子で駅構内での営業権を取得して、祖父とその兄弟がそれぞれの場所で飲食業を始めることとなったんです。仙台では牛タン弁当の「こばやし」、我孫子市は駅そばで有名な「駅そば弥生軒」、そして郡山市が弊社「福豆屋」として、今も営業しています。

祖父は和菓子屋の工場長として、ものづくりに特別なこだわりを持っていたと聞きました。福豆屋の創業当時は構内で立ちそばも提供していたそうなのですが、お客様がお残しになったそばつゆを飲んで、なぜ残して帰られたのかを探求するほどだったそうです。

祖父が亡くなった後は祖母が継承し、父へ、そして私たちへと暖簾を受け継いできた次第です。

 

――親子三代に渡って福豆屋を守り続けてきたのですね。

そうなんです。父の時代には、郡山市内の名だたる食品工場一丸となって、食品工業団地を作るという功績も残したそうです。父がアメリカに渡った際、現地で目にしたアイデアを皆さんと共有して作りあげました。父には先見の明があったのでしょうね。公害対策として、当時は先駆的な取り組みだったそうですよ。

その後、1986年に福島全土を襲った8.5水害でも甚大な被害があったそうですが、おかげさまで団地内で死者が出ることはなかったそうです。多くの挑戦と困難を経て、ありがたいことに2024年で100周年という節目を迎えるに至りました。

 

――昨今の新型コロナウイルスは、貴社にとって大きな壁だったのではないかと思います。

まさに、コロナ禍では弊社だけでなく、取引先も含めて苦難の期間でした。駅弁屋の売り上げは電車や新幹線による交流人口で成り立っているにもかかわらず、観光・移動の自粛によって通常の1割にもみたない売り上げまで下がってしまって。

幸い、私たちは駅弁事業だけでなく、地元の保育園からお年寄りのデイサービスなど、さまざまな施設へ向けた給食事業も展開しておりました。駅弁のような非日常食での売り上げが下がってしまっても、日常食の提供が途絶えることがなかったため、コロナも乗り切ることができたんです。

 

――100年という長い歴史を福豆屋が紡ぐことができた根幹には、どんな秘訣があったと思いますか。

驕らず、謙虚な姿勢を守り続けたことが今につながっているのではないかと思います。

当時、構内営業権を取得することは大変貴重だったそうで、亡くなった祖母からは「駅に足を向けて寝るな」と何度も言い聞かされてきました。駅弁屋として、美味しい弁当を作り販売し、お客様に喜んでいただくことを第一に考えるようにと。会社を支えてくれている従業員にも感謝を忘れぬよう、再三指導されましたね。

「軽々しく老舗を語るな」という父の言葉も、謙虚さの表れだったと感じます。鉄道が開通してすでに150年以上。私たちは後発者であり、鉄道がなければ福豆屋の商売は成立していないのですから。感謝の思いは、今後も代々大切に受け継いでいくべきものと考えています。

 

バブル期のOLから100年企業の役員へ。利用客の応援が壁を乗り越える支えに

 

――小林さんが専務取締役に就任されるまでの経緯もお聞かせください。

元々は、東京でOLとして働いていたんです。当時はバブルが弾ける前だったので、赤坂や四谷、新橋あたりの飲み屋街によく繰り出しては大好きなお酒を嗜む日々でした(笑)。

そんな日々を送っていた矢先、阪神淡路大震災の3日後、父が病で急逝しました。生前の約束を守って郡山へ帰り、母を助けるためにこの仕事につきました。「駅弁屋は未亡人が多い」とよく聞きます。母もですが、実は私自身も早くに夫を病で亡くしたので、奇しくも母も私もその内の一人になってしまいました。

 

――役員就任の裏に、大変な苦労があったのですね。OLから大きなキャリアチェンジですが、そういった点でも苦労があったのではないでしょうか。

確かに大きな変化でしたが、OL時代に経営企画部や総務部に勤めていた経験を活かして会社に寄与できていたのではないかと思います。家族経営から出発した企業なので、成長スピードに見合った内部の組織化や、細かな数字の整合性向上などの部分では貢献できたかなと。

とはいえ、やはり道のりは平坦ではありませんでした。後継のご挨拶まわりに伺った際、当時のお取引先から「親父さんにはお世話になったけど、あんたの世話にはなんねぇよ」と冷たくあしらわれてしまって。訪問のお約束をしていた時間になって、急用ができたからとすっぽかされてしまうこともしばしば。当時はまだ、女性のキャリア進出は冷遇されることも多かったんです。

私たちが継いでからの約30年は、福豆屋の歴史でもかなり苦しい時期を経験してきた時代なのではないかと思います。リーマンショックやデフレ、東日本大震災、新型コロナの蔓延、そして昨今では、止まらない材料費の高騰など……。

 

――まさに激動の30年ですね。その激動のなか、心の支えになったり頑張る原動力になったエピソードなどはありますか。

印象的なのは、東日本大震災の際にいただいたお客様からのあたたかい応援です。当時、JRは震災から1ヶ月ほどで大宮から一関までの新幹線を復旧させ、首都圏からたくさんの方が応援にいらしてくださいました。

「ガソリンは持っていけないから、代わりに心のガソリンを」と、従業員へビールの差し入れをしてくださる方や、以前から懇意にしてくださっている鉄道カメラマンの櫻井寛さんもすぐに応援に駆けつけてくださって。櫻井さんは、うちの看板商品でもある「海苔のりべん」を、「素朴でおいしい」と愛してくださり、多方面に発信してくださったんです。

 

――大変な局面も、応援してくださるお客様がいると大きな力になりますね。

どんなときでもお客様の声が仕事の励みになりますし、やりがいになります。郡山市は各企業の支社も多いので、全国各地のお客様がお見えになりますし、私たちが出張して首都圏の駅や百貨店で実演販売をおこなうことも。そうすると、お客様からお褒めの言葉を直接受け取ることができて、それが何より嬉しいんです。

「こうなったらいいな」というご要望も直接お聞きできるので、商品開発での改善にも役立てています。

 

地元を背負う味を生み出すために、産地・製法など商品開発に徹底したこだわりを

 

――先ほどの「海苔のりべん」といえば、テレビにも取り上げられていました。どんな商品なのでしょうか。

ありがたいことに、TBSの「マツコの知らない世界」で取り上げていただいてからは特に反響が大きく、2018年にはJR東日本主催の「駅弁味の陣」にて最高賞である駅弁大将軍を受賞しました。今でもうちの看板メニューで、たくさんの方に愛されています。

実はこの商品、ある番組の企画で制作させていただいたものなんです。アイデアのきっかけは、私の母が作ってくれたお弁当。4人姉妹全員のお弁当を欠かさずに作ってくれた母のお弁当は2段作りで、大きな卵焼きと味のしっかりした海苔弁スタイルでした。頭の片隅にあった家族とのあたたかな思い出を拾い上げ、形にしたのが「海苔のりべん」なんです。

2010年に発売し、その翌年には東北大震災が起きて。番組の企画で偶然生まれた商品が、震災からの復興を助け、その後も10年以上弊社を支えてくれる大切な存在になりました。

 

――熱い想いが込められた「海苔のりべん」、郡山を訪れた際には必ずゲットしたいと思います!使用する食材などには、何かこだわりはありますか。

地元の駅で販売するお弁当ですので、その土地でとれた食材、地元料理を作ってお出しするのが私たちの使命です。駅弁屋は地元食材の広告塔だと考えるくらい、強いこだわりを持っていますね。

例えば、弊社が最初に発売した「幕の内弁当」。三種の神器である卵焼き、焼き鮭、かまぼこ、そして粒立つように炊いた白米……、すベての食材に産地や製法からこだわりを持っていてます。

 

――小林さんご自身が、駅弁に大きな愛情を持って向き合っているのを感じます。

私自身は、実はお弁当よりもお酒のつまみを作る方が好きなんですけどね(笑)。お弁当は、息子のためによく作っていました。ラグビー部だったので、白米てんこ盛りに唐揚げ、チーズインハンバーグなどもたくさん作って食べさせていましたね。

あるとき息子から、「お母さんはちょっとしか食べてないのに味を判断しようとするよね。ご飯もおかずも全部食べてやっと、全体的にしょっぱかったのか甘かったのかがわかるのに」と言われてハッとしたことがありました。息子のちょっとした一言でしたが、味の判断方法や、お弁当の量自体を商品開発に反映させるヒントになりましたね。

 

――普段から周囲の声を敏感にキャッチするようにされていますか。

弊社は女性社員が多いため、お弁当の色味や具材についても、よく意見を聞いています。駅弁屋で働くくらいですから、食べ物のトレンドに興味のある方も多く、とても参考になるんですよ。

幅広い世代の女性が働いているので、社員同士の交流を見ていると、上の世代から今のお母さん世代に味を伝承しているような雰囲気が感じ取れます。会社だけでなく、「母の味」が世代を超えて受け継がれていく。そんなコミュニティが社内でできあがっているなと実感しています。

 

人の暮らしに欠かせない食を担う誇りと、食の奥深さに出会える仕事

 

――福豆屋の今後の展望について、お聞かせください。

ひとまず2024年で100周年という大きな目標を達成することができるまでになりました。周囲では「DX」や最新技術を取り入れるといった声が聞かれるようになりましたが、私たちはそれ以上に、駅弁から感じられる作り手のあたたかみをそのまま残すことを第一に考えていきたいです。

コロナ前に、食材の生産者の皆さまと近しくさせていただく機会がありました。農産物を獣害から守るために、生産者がどのような対策をしているのかや、安全・安心な食材をお届けするための工夫など、そこにははかりしれない真心や愛情があったんです。

私たち自身が、その土地や食材についてはなんでも知っておきたいし、その興味や地元との関係性を次世代にも受け継いでいきたい。ものづくりのプロフェッショナルたちに囲まれて仕事ができているという事実に誇りを持って、いい意味でお客様の期待を裏切り続けたいと思います。

 

――働く場所としての貴社の魅力も、ぜひ教えてください。

男女関係なく活躍できるような職場になっていると思います。父たちが作った食品工業団地内には、各企業からの補助を集めて、30年ほど前から企業主導型保育園を設置しているので、子育て世代も安心して働ける環境です。

郡山という土地柄で農家出身の方が多く、女性だけでなく男性の意見も商品開発に反映させているので、ものづくりや食材に強い関心を持ってくださる方にはぴったりの職場だと思いますね。

 

――最後に、読者へのメッセージをお願いします。

お伝えしたとおり、駅弁屋は地元食材の広告塔です。郡山を背負っている自負もありますし、購入していただいたお客様の足を借りて、全国各地を渡り歩いていけるのも駅弁だからこそだと思っています。

人にとって食べることは、基本的に365日欠かすことがないくらい、縁の深いものです。お客様の大切な一食を作ることの楽しさや、地元の魅力を伝える伝道師になれることは、この仕事の何よりの魅力。仕事に向き合いながら、自分自身も新たな味に出会うことのできる味わい深さもあります。ご自身の人生もきっと今以上に豊かにできる仕事だと思うので、キャリアの選択肢に加えていただけると嬉しいです。

 

福豆屋の詳細はこちらから

ホームページ:http://www.fukumameya.co.jp/

 

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