【ダシマス老舗・あんじゅう平ちゃん】50年を超える経営者人生。芯を持って「生涯現役」

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written by ダシマス編集部

創業30年以上の老舗企業に焦点を当てる本企画。持続的な成長と成功をおさめ、時代をまたぎ社会に貢献してきた歴史を紐解き、その長い期間によって培われた文化や知見から、多くの人に気づきとインスピレーションを与えることを目指しています。

株式会社あんじゅう平ちゃんは、福島県会津若松市にある会社で、新築・住宅リフォームや融雪工事を手がけています。代表取締役社長の渡部平次(わたなべ へいじ)さんは、1968年に1社目を創業し、40年の経験と知識を生かして65歳のときに2社目となる同社を設立しました。

御年81歳。半世紀を超えて地域の人々の生活を支えてきた渡部さんに、ご自身の人生や経営について振り返っていただきました。

代表取締役社長 渡部 平次(わたなべ へいじ)

代表取締役社長 渡部 平次(わたなべ へいじ)

中学校を卒業後、「自分で会社を起こしたい」という思いのもと、大工職人としての経験を積みながら25歳で創業。さらに2009年、65歳のときに1社目を息子にバトンタッチして、自身2社目となる株式会社あんじゅう平ちゃんを設立する。「老驥伏櫪(ろうきふくれき)」を個人のテーマとしていて、いつまでも志を持ち続けることを大切にしている。職業訓練校で17年間教壇に立つなど、経営者以外の豊富な経験も持つ。

執筆:紺野 天地(こんの てんち)

執筆:紺野 天地(こんの てんち)

フリーライター、文筆家。取材記事の執筆ほか、創作活動もしている。ライターとしては主に、形にとらわれないで生きる方々の姿を取材。

父に意志を告げ、中卒で職人の道に

 

――創業に至るまでのお話を伺います。「起業したい」といつ頃から思われていたのですか。

中学を卒業してすぐ、15、6歳の頃ですね。私は、農家だった父に「後を継いでほしい」と言い聞かされて育ち、中学校は農家を目指すクラスにいたんです。

 

――お父様の後を継がなかったということですね。

1902年生まれの父は、戦争から二度帰ってきて、必死に田畑を集めて農家になりました。私の平次という名前は、父の和平という名前から取ったんです。「自分の後を継がせたい」という思いでそうつけたと聞いています。

私も父の思いは分かっていて、最初は農家になるつもりでした。けれど、「職人として技術を身につける仕事がしたい」と父に伝えて、中学校を卒業してすぐに、親戚のもとで大工の仕事を始めました。

 

――なぜ農家を継がなかったのですか。

父の時代は小規模の田畑を手作業で管理するのが主流でしたが、私が小さい頃に機械化が進み、広い田畑を共同経営するケースが増えてきました。そんなふうに農家の在り方が変わってきていて、1人で経営するやり方ではやっていくのが難しいと思ったからです。

 

――それで大工をするうちに起業志向が明確になったわけですね。

そうですね。いつまでも弟子や大工でいるのは性に合わないと感じて、それなら自分で会社を起こそうと思い、23歳のとき武者修行に出て、25歳で起業しました。中卒だったので、「高卒の連中に負けられない」といったハングリー精神みたいなものもありましたね。

 

私は19歳で結婚して長男、長女をもうけたのですが、妻は最初、私が農家になるものだと思っていましたから、「大工の嫁になったつもりはない」なんて言われたりもしましたよ(笑)。

 

郷里ではない土地で始めた商売 

 

――創業時のことを覚えていらっしゃいますか。

はい。最初に生まれ育った下郷町から喜多方に出て、それから、この会津若松に移って商売を始めたんです。誰一人知り合いがいない土地で商売をやるのは大変だったので、よく覚えています。

 

――どうやって事業を広げていったのですか。

まずは自分の名前を知ってもらおうと、部落の区長や子ども会育成会をはじめとした組合などのボランティア活動にどんどん参加しました。親からもらった名前と顔を大いに生かすという考え方です。

子ども会育成会の会長なんて、結局20年くらいやったかな。そうやって地域に根付くための活動を続けていたら、名前を知ってもらえるようになってきて事業も広がりました。

 

――今まで大変なことがおありだったかと思います。

56年も会社をやってますから、大変なことばかりでしたね。裁判を起こしたことだって2回あります。

けれど、どんな状況でも自分の中に一本の芯を持っていれば、志がブレることはありません。私は、会社を起こすからには「福島県で一番の企業になりたい」という思いでずっとやってきました。今でもその思いは変わりません。

 

――「決めたことを貫く」というのは渡部さんが大切にしている価値観でしょうか。

はい。一度決めたことをやり遂げるというのは、いつも根っこにあります。

私が創業した当時は、今のように資格が必要な時代ではなくて、「二級建築士」だってちょっと大工経験があれば取得できました。けれど、時代とともに資格がないと会社が認められなくなったんです。だから私は、自分で20~30個の資格を取りました。私自身が資格を持っていれば、自分が諦めない限り商売は続けられるわけで、会社が潰れることはありませんから。

 

人は一人では生きていけない

 

――経営者人生の中で印象に残っているエピソードを教えてください。

5年ごとの節目に旅行やパーティーをはじめとしたイベントを企画しているのですが、最初の会社を後継者に渡し、今の会社を創って5年目、経営者として45年が経ったときに、記念講演会を自主開催したんです。

そしたら、700人が入る部屋がいっぱいになり、しぶしぶ帰宅された方もいるくらい人が集まってくださって。「周りの人たちに生かされてきた恩返し」という意味を込めて開催した講演会だったので、とにかく嬉しかったですね。

 

――渡部さん自身が「人」を大事にしてきたからこその光景ですね。

私は周囲に支えられて生きてきましたから、感謝するのは当然だと思います。

人は時に裏切ります。特に状況が悪くなると、掌を返すように離れていくことは少なくありません。けれど、自分を支えてくれる人は、頑張る原動力にもなるし、良い相談相手にもなるし、学ぶ対象にもなる。人は一人では生きていけないんです。

先祖に対しても同じように考えていて、祖父や祖母、さらに前の先祖がいたからこそ今の自分がいる。だから毎日神棚や仏壇に手を合わせて、感謝の気持ちを伝えています。

 

――会社経営では「敵」ができることもあると思います。

支えてくれる人が半分以上だと考えれば、そこまで怖くなる必要はないと思いますよ。例えば周囲に100人いたとして、そのうちの51人が味方だと思えば頑張れるはずです。実際のところがどうかは分からないんだから、味方のほうが少ない、なんて思う必要はないでしょう。

 

100歳になるまで走り続ける

 

――今後の展望についてお聞かせください。

100歳になるまで、若い社員とともに頑張り続けたいと思っています。若い人たちと話すと自分の心も開くし、はつらつとしてくるんです。私は生涯現役のつもりでいるので、いつまでも若者から刺激を受けて気合いを入れられるような人間でいたいですね。

 

――そこまで若々しく挑戦を続けられる秘訣は。

前向きに物事を考えることですかね。後ろ向きでいると、何から何まで落ち込んでしまいます。やっぱり、元気に勝るものはない。自分の脚で立って、自分の意思で生きていくためにも、前向きでいることが大事だと思います。

 

――最後に、渡部さんが考える「リーダーとして大切なこと」を教えてください。

芯を通した状態でつき進むことです。リーダーが優柔不断な状態では、何を言っても説得力がありませんよね。ちょっと周囲から批判されたからって簡単に引っ込めてはダメで、芯を持って、自分の意志をしっかりと貫くことが大切だと思います。


 

あんじゅう平ちゃんについて

ホームページ: https://heicyan.com/

 

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